読書は必要か?

「若者の読書離れ」みたいなものが結構前から叫ばれている。

本や新聞といった活字の媒体の発行部数の減少など、その兆しは顕著らしいが、一方で「そもそも読書は必要か?」という議論もネット上で散見する。

「どっちでもいい」という意見も多いが、肯定派否定派ともに「読書=情報を得るためのもの」という考え方の様だ。

肯定派の場合は「知見を広げる」と言い、否定派は「情報ならネットで良い」となる。

ただ、この二つの考え方は、読書の根本的な意味を理解していないと思う。

知見を広げるなら否定派の言う通りネットなどで調べればいいし(情報が1冊という単位に区切られているのは意味があるだろうが)、「情報はネットで良い」という人は「計算は電卓で良い」と算数も学ばなくていいと思っているのだろうか?

読書をする意味は個人的には「情報の処理を学ぶ」ものだと思っている。

書かれている内容は知見を広げるの為に十分な意味があるが、それ以上に、そもそも何かの”情報”を文章で”伝える”仕組みを無意識に覚えていくのが読書の持つ効果なのだと思う。

それはネットでも変わらない。

ただ、ネットの文章と本の文章は、内容やページ数、デザインなどでさまざまなものがあり、それぞれ独自の論理的な構成を持っている。

その中でネットよりも本が優れている要素として考えられるのは、その書かれている文章の完成度ではないだろうか?

ネットの場合はまともな論文などを除けば、記者が書いたほんの数ページの記事と関連リンクを渡り歩く感じで情報を得るが、本の場合は本題と関連する情報などを数百ページにわたり書いてある場合が多い。

そして、本の場合は読者が”お金を払って読む”ものであり、著者サイドもそれなりの完成度を求められる。一方ネットの記事ではそれほど高いクオリティは求められていないし、下手な記事を書いたところで、必ずしも損をする人がいるわけではない。

文章の長さ(一つのテーマにおけるスケール)も大きな違いだが、この”文章の長さ”は組み立てる論理がかなり変化する要因の一つと考えられる。

わかりやすいところでいうと、昔は手紙だったのが今はメールになり、それが今はLINEやTwitterになっている。

手紙の場合は相手に情報を送るコスト(時間や手間)がかなりかかる為、非常に注意を払って書くと思うが、コストが下がるにつれて内容が適切かどうか等のチェックがおろそかになり、Twitterなどでは不適切なツイートをする人が後を絶たず、『バカ発見器』『バカッター』などとも言われている。

そして、文章の長さは、相手に送る情報の量や正確性などに大きな影響が出てしまう。

今まで500文字で伝えていた内容を100文字で伝えるとなると、いろんな部分を削除しなければならない。その際、豊かな表現を避け在り来たりな表現を使ったり、詳細な情報や正確な表現なども削ったりしなければならなくなる。

「そういうものもある」という具合で、いくつかの表現の一つと考えられればいいのだが、「それしか知らない」場合は非常に狭い視野、考え方の人間になるのではないだろうか?

つまり、普通の人が500文字で考えられるところを、100文字でしか考えられないとすると、これは明確な退化でしかないと思う。

結論を言うと、ネット等は非常に有用なものなので避ける必要はないが、そもそも人間の性能を落とさないためにも、読書はすべきである。

これは身体にも言えることで、「車があるから走れなくなってもいい」とはならない。
スポーツ等は人生で特に必要なものではないが、身体の機能を維持、向上させるには運動は欠かせないし、その手段としてスポーツは最適なのだ。

同じように、人間社会では文字を使った情報交換が必須である以上、文字を使う機能(脳)の維持、向上が必要で、そのためには読書が非常に有効である。

結論
皆さん本を読みましょう。

以上。