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『ヒトはなぜ絵を描くのか』

『ヒトはなぜ絵を描くのか』著者:斎藤亜矢

面白かった。

絵を描く行為は文字の発明に近い。

そして線から”何か”をイメージする力は、物語性を生み出す「想像力」と似ており、想像力は記憶の効率化に貢献する。

子供が絵を描くことが好きなのは、この「物語性」を獲得する練習なのかもしれない。

また、描くことの面白さは「環境のアフォーダンスを受け、そこから物語を紡ぎ概念化、記憶に結び付ける」という工程を進んで経験するためのモチベーションになっているのかもしれない。
アートは既存の概念を壊すことに魅力がある部分もあるが、今後は物語の流れでずらしたアートが出てくるのかもしれない。

ここでの「面白さ」とお笑いや実際の物語などの面白さとの共通点なんかも気になる。


あと、本の内容とはあまり関係ないかもしれないけど、著者が子供のころ「考え事を一度にいくつできるか?」という疑問がわき、実際に挑戦していたそうだ。

子供のころのこういう原体験みたいなのって、面白いよね。


統計「思い過ごしの世界」


客観的なデータを見ることで、自分達が見ている(生きている)世界がいかに不正確で、人はそれぞれ自身が持っている「思い過ごしの世界」に生きてるってことがよく分かる。
以前、記憶と感情について書いたけど、「思い過ごしの世界」ってのは、脳のシステムとしては当然な事なのかもしれないね。

それを覗き見れるのが統計の面白さ。

人工知能

人工知能は「身体がない」という決定的要素を変えなければ人間には近づかない。
身体を持ち、環境のアフォーダンスや制限を受けてこそ生まれるものもあるからだ。

あと、自我と全体のバランスも大事。
これに関しては人間もどういうシステムなのかわからんけど。

ていうか、そもそも人間とは違う方向に進めていく感じなのかな?

もし、人工知能が自立して独自に生態系を築いた場合、なんか原始的な世界になりそうな気がする。アメーバとかカビみたいな。

人間はいびつだから面白いんだけどね。生物として洗練されると、いずれ収束していきそう。乱数とかは実装するのかな?



心を生み出すシステム

基本的に人間に自由意志などは無く、一般的にいうところの”心”というものも存在していないというスタンスでいるんだけど、皆が”心”と言っている”何かしら”はあるので、それが何なのかをちょっと考えてみたい。

そもそも”心”って何を指すのだろう?

ちんたら書くのもアレなので、独断と偏見で「感情」と「物語性」だと決める。
で、この「感情」や「物語性」にはきちんとシステムとしての役割がある。

まず「感情」だけど、これは物事の「正否」を決めるためのフィルターみたいなものだと考える。
何かを選択するときや、対象を好意的に記録するか否定的に記録するかなど。
また、その決定が確実ではなく、ある種のランダム性を持っているという点が重要だ。

人間というのは「こうなれば必ずこうなる」といった機械的な決定をしないものだ。

「ある条件を満たせば必ずこうなる」という状態に、不確実な”ゆらぎ”を付け加えて、全体としての選択が一方向にまとまらない(収束しない)ように働く、それが感情の役割だと思う。

例えば「みんなが○と言っているし自分もそうしよう」や、逆に「みんな○だから自分は×にしよう」というのは、感情のフィルターを通した結果を受けて判断を決定しているといえる。※保留もある
判断以外にも、認知のプロセスには全て感情のフィルターがかかっており、情報が意識に上る前から感情による取捨選択が行われているそうだ。

もともと脳ではニューロンのスパイクに対してシナプスが神経伝達物質を放出する際、放出が行われるかどうかは確率で決まる。
それと同じ不確定性が脳細胞から人間のスケールに変えても保存されており、その不確定性を作るためのシステムが感情なのではないかと思ってる。


さて、もう一つの「物語性」だけど、これは記憶のためのシステムではないかなと考えてる。
よく記憶術なんかで「ストーリー立てて覚えれば覚えやすい」とかあるけど、そもそも人間の記憶のほとんどは物語で覚えているのではないだろうか?(リズムに乗せて覚えたり)
※正確にいうと物語性というより”関連性”かな?

絵を描いているとよくわかるけど、人の顔や物の形など、人間は驚くほど記憶していない。漢字なんかは特に分かりやすい。読めるけど書けないってやつだ。
この場合、漢字の細部の記憶はあいまいで、前後の文面や全体の印象で「これは確か○○だな」と気づく。すごいのは細部が少し違っていても意外と気づくところだ。
※体が覚えているってのもあるけど、とりあえずそれは置いておく

画像データで喩えるとビットマップ形式で覚えているのではなく、ベクター形式で覚えている感じかな。細部の表現は難しいけど、大体の形を少ないデータで保存できる。

「感情」と「物語性」と「記憶」は相互に関連しており、それぞれを互いに強化しあっているように感じる。※時間の概念も生まれるね

また、実際の世界には、認知できないレベル(あるいはしきれない)のノイズのような情報があるが、感情や物語性には、このノイズを程よく除去する作用もあるのではないかな。自然さを出すためにはノイズは必要なので、脳内で改めて付け加えるのだろう。

結論を言うと『ある複合体の中で、個体としての振る舞いを決定するためのシステムを”心”と呼んでいる』って感じ。

誰かこの辺を研究している人いないのかなぁ。。

柔軟性の力

スポーツをしていると柔軟性の必要性をうるさいほど言われる。

ほとんどの場合が「怪我の予防」だ。

ただ、柔軟性の向上がパフォーマンスを上げることについては、さほど語られている印象がない。

トレーナーなどもパフォーマンスが上がると口にはするが、具体的にどう変わるかを説明できる人は少ないように思う。

実際、トレーナーや柔整などの身体の専門家でも「過度の柔軟性は伸張反射を鈍くしてしまう」と柔軟性がつくことによる弊害としてパワーや瞬発力の低下があると信じている人がいる。

実際、僕も人よりは少し身体が柔らかいけど、ある柔整の先生から「見た目よりも力は弱いはず」と言われた事があります。

まあ、実際スパーとかで対戦した人からは力が弱いと言われた事はないですが。

なぜ、トレーナーは柔軟性の重要性をあまり理解できていないのか?
それは、、、自分が柔らかくないからだと思う。

さらに言うと、柔軟性の高いアスリートは、一部の競技(バレエとか)を除きかなり少ない。
自分も硬いし、周りにも柔らかい人はいないとなると、推測でしかものが言えない。
なので、いまいち柔軟性の重要性がわからないのだ。

トレーナーの指導するストレッチに関しても、筋肉の緊張をほどくケア的なものばかりで本格的に柔軟性を上げるための指導はおそらくしたこともないだろうし、やり方もわからないんじゃないかな?

個人的には身体のケアとしてのストレッチと柔軟性を上げるストレッチは全く別だと思ってる。
実際に僕の柔軟を見てる人は、とても「身体のケア」をしているようには見えなかっただろう。

さて、ではスポーツ界で身体が柔らかい人はいないのだろうか?と探してみると、有名なところで一人います。

それは、野球のイチロー選手。



ストレッチに多くの時間を割くことも知られていますね。
(日ハムの大谷選手も柔らかいらしい)

とはいえ、イチローだけを引き合いに出しても説得力がない(気がする)ので、もう一つ例を挙げてみる。

それは、

ディープインパクト!

競走馬です。

ディープは身体も小さくネコ科の動物の様で、武豊騎手も「チーターみたい」と言っていたそうな。
当時、競馬界では身体が小さい馬は評価が低かったそうですが、ディープの出現によりその認識は改められたようです。

そして、そのディープのお父さんであり、日本の競馬界を変えた種牡馬であるサンデーサイレンスも身体が柔らかかったという事実があります。

サンデーは華奢で足はひょろ長くX脚気味で、筋肉は柔らかく、その身体的特徴は当時の相馬眼の基準からは「走らない馬」とされたそうです。

この時も筋肉が柔らかいことは「パワーや瞬発力がない」という認識だったようです。

ところがどっこい、サンデーはG1を勝ちまくる。

その後、種牡馬として13年連続リーディングサイアーになり、その産駒もサンデーと同じく柔らかい筋肉を武器に、重賞レースで勝ちまくり、「柔らかい筋肉はダメ」という常識を完全に覆したそうだ。


以上を見ても、柔軟性というものが持っている可能性はかなり大きいと言える。
一方で、柔軟性をつけるリスクがないとも言えない。

大事なのはその身体をコントロールすること。

選手は自分に合った身体をよく理解したうえでトレーニングすることですね。



スケールの違い

スケールの違いによって、対象となる世界が変わる。

金網があれば人間は先には進めないが、小さな蟻には難なく通れる。
おそらく金網の存在にすら気付いていない。

一方、小さな蟻には庭の水たまりは渡れないが、人間は気にも留めずに渡れる。

よくロープは人間サイズだと1次元だけど蟻には2次元であると喩えられる。

サイズによって世界は変化するのだ。

これは時間でも同じで、地上で1週間しか生きられない蝉に来週の天気予報は必要ない。

つまり、対象となる世界が変わるので、必要な情報も変わってくるのだ。

片方で必要な情報も、もう片方では不必要になり、その逆もある。

この「対象とする世界の違い」が同じ種族間でも起こるなら?

例えば「頭の回転が速い人」と「頭の回転が遅い人」は対象とする世界(情報)が違うのではないか?

なので、一概にどちらが優れているということはないのだと思う。


老後を考えて生きる人もいれば、何万年後かの人類の科学の進歩に思いを馳せる人もいる。そして、余命一年と言われた人はその一年を大事に生きるだろう。

大事なのは自分がどのスケールで生きているかを理解することだね。

読書は必要か?

「若者の読書離れ」みたいなものが結構前から叫ばれている。

本や新聞といった活字の媒体の発行部数の減少など、その兆しは顕著らしいが、一方で「そもそも読書は必要か?」という議論もネット上で散見する。

「どっちでもいい」という意見も多いが、肯定派否定派ともに「読書=情報を得るためのもの」という考え方の様だ。

肯定派の場合は「知見を広げる」と言い、否定派は「情報ならネットで良い」となる。

ただ、この二つの考え方は、読書の根本的な意味を理解していないと思う。

知見を広げるなら否定派の言う通りネットなどで調べればいいし(情報が1冊という単位に区切られているのは意味があるだろうが)、「情報はネットで良い」という人は「計算は電卓で良い」と算数も学ばなくていいと思っているのだろうか?

読書をする意味は個人的には「情報の処理を学ぶ」ものだと思っている。

書かれている内容は知見を広げるの為に十分な意味があるが、それ以上に、そもそも何かの”情報”を文章で”伝える”仕組みを無意識に覚えていくのが読書の持つ効果なのだと思う。

それはネットでも変わらない。

ただ、ネットの文章と本の文章は、内容やページ数、デザインなどでさまざまなものがあり、それぞれ独自の論理的な構成を持っている。

その中でネットよりも本が優れている要素として考えられるのは、その書かれている文章の完成度ではないだろうか?

ネットの場合はまともな論文などを除けば、記者が書いたほんの数ページの記事と関連リンクを渡り歩く感じで情報を得るが、本の場合は本題と関連する情報などを数百ページにわたり書いてある場合が多い。

そして、本の場合は読者が”お金を払って読む”ものであり、著者サイドもそれなりの完成度を求められる。一方ネットの記事ではそれほど高いクオリティは求められていないし、下手な記事を書いたところで、必ずしも損をする人がいるわけではない。

文章の長さ(一つのテーマにおけるスケール)も大きな違いだが、この”文章の長さ”は組み立てる論理がかなり変化する要因の一つと考えられる。

わかりやすいところでいうと、昔は手紙だったのが今はメールになり、それが今はLINEやTwitterになっている。

手紙の場合は相手に情報を送るコスト(時間や手間)がかなりかかる為、非常に注意を払って書くと思うが、コストが下がるにつれて内容が適切かどうか等のチェックがおろそかになり、Twitterなどでは不適切なツイートをする人が後を絶たず、『バカ発見器』『バカッター』などとも言われている。

そして、文章の長さは、相手に送る情報の量や正確性などに大きな影響が出てしまう。

今まで500文字で伝えていた内容を100文字で伝えるとなると、いろんな部分を削除しなければならない。その際、豊かな表現を避け在り来たりな表現を使ったり、詳細な情報や正確な表現なども削ったりしなければならなくなる。

「そういうものもある」という具合で、いくつかの表現の一つと考えられればいいのだが、「それしか知らない」場合は非常に狭い視野、考え方の人間になるのではないだろうか?

つまり、普通の人が500文字で考えられるところを、100文字でしか考えられないとすると、これは明確な退化でしかないと思う。

結論を言うと、ネット等は非常に有用なものなので避ける必要はないが、そもそも人間の性能を落とさないためにも、読書はすべきである。

これは身体にも言えることで、「車があるから走れなくなってもいい」とはならない。
スポーツ等は人生で特に必要なものではないが、身体の機能を維持、向上させるには運動は欠かせないし、その手段としてスポーツは最適なのだ。

同じように、人間社会では文字を使った情報交換が必須である以上、文字を使う機能(脳)の維持、向上が必要で、そのためには読書が非常に有効である。

結論
皆さん本を読みましょう。

以上。

純粋○○

サイモン・シン著 フェルマーの最終定理を読み終える。

面白いね、これ。

さて、この定理、数学に明るい人間じゃなければ「何の役に立つの?」って感じだけど、こういった難しい難問を解くために編み出されたテクニックが、あらゆる分野で役に立つのだそうだ。

ところで、フェルマーはアマチュアの数学者だったそうで、本職は弁護士。
数学においては様々な業績があるが、あくまで余暇に嗜んでいた趣味だったみたい。

しかし、何かを極めんとするには、お金や名誉と言ったものの為ではなく、純粋にその事について取り組むことが大事なのではないか?

何かの評価を意識すると、対象を「評価」に照らし合わせて観察することになり、「対象」そのものを純粋に観察できなくなる気がする。
少し変わった『観察者効果』みたいな感じかな?

思えば、お金や名誉のためではなく、一つの道に邁進した人は多い。

例えば、2代目桂枝雀も笑いの理論について考えを巡らせていたのは”笑いをとる為”でも”人気者になる為”でもなく、純粋に笑いとは何かを追い求めたのではないだろうか?

絵描きだと、伊藤若冲などはお金の為などでは無く、大作『動植綵絵』を描いていたし。

周りから理解されない道を行くのは、相当な労力だと思うけど、きっと彼らはそういう性分なのだろうね。

数とリズム

ピュタゴラスは心地の良い和音は簡単な数比によって作られる事を発見したそうな。
キッカケは鍛冶屋のハンマーの音。

美しい和音はハンマーの重さが一つのハンマーに対しもう一つが2分の1や3分の2等、簡単な数比の場合の時に出来るとの事。

音楽などは、正解を教わらずとも「良いもの」とそうでないものが解る。
おそらく、音楽に代表される”リズム”には、何かしらの法則があると個人的には考えている。
緊張と緩和理論でも緊と緩のリズムがフラクタルのように何次元かに重なっているって言っていたし、音楽にも音とメロディーという次元の違うリズムがあるから、それらを正解のリズムに導く法則が何かしらあると思う。



そんな中何気なくπについて検索していたら、こんなのが出てきた。

πを音楽として弾いてみたそうだ。

昔、ガウスが素数を階段に例えてその並びを体感しようとしていたけど、音楽にするっていうのも感覚的にとらえるには良い手段かも知れないね。

素数の並びとフラクタルって何か関係してないのかな?

人工知能と感情

人工知能と人間を比較するとき、人工知能側には身体を持った経験の記憶がないのは、かなりアンフェアだと思う。

それとは別に、人工知能の課題として「感情」の存在がある

緊張と緩和理論では笑いについてしか語られていないが、基本的に人の感情は「ある状態とある状態の間を移行する(ゆらぎ)によって想起される」と考えているので、この理論がより深められれば、感情が生まれる仕組みや正体がわかるのではないかと思う。

で、このゆらぎの”ある状態”というのは、緊張や緩和と言った”温度”のようなもので、それがもう一方に移行するために”時間や距離”が生まれてくる。

もしこの”状態のゆらぎ”が感情の想起を決定づけられるのであれば、このゆらぎのパターンを解析し、再現できれば、コンピューターでも感情を理解した事にはならないだろうか?

勿論「笑いとはこういう状態」と言う事を学習させておいた上でだ。

つまり「こういうパターンの刺激に対して、笑いという状態になる」と言う事を関連付けて記憶させると言う事。

さらに、その感情に共感するようにプログラムを組めば、より高度な人工知能が出来る気がする。

パターンはかなり複雑になるだろうし、認識するスケールも様々だ。
※枝雀さんも緊張と緩和はフラクタルのような構造ととらえていたみたい

難しいだろうが、感情を理解させるためには、感情を想起させる仕組みを覚えさせるもの一つの方法だと思うし、今後の人工知能の研究に期待してみたい。


にしても、つくづく枝雀さんには今の時代を生きてほしかったなぁ。。。

fMRIで客の脳内を観察しながら落語を聞かせて、笑いに向かうまでのパターンとかを分析してほしかった。。

誰かやらないかなぁ。

鬱病

うつ病を語るとき、本人の気の持ちようで治るものではない事と、(自殺によって)死に至る可能性があると言う事がよく言われる。

最近ふと思ったのが、
「鬱は”死に至る病”ではなく”死に至る途中”なのではないか」と言う事。

ライフゲームで例えて言うと、
周りに2~3の生存しているセルがあれば真ん中のセルも生存できる。
1個以下だと死滅。4つ以上にあっても死滅だ。

鬱は周りのセルが4つ以上もしくは1個以下の状態で、真ん中のセルが死滅する環境になった状態とみなす事が出来る。
と言っても、人間はゲームのようにパッと消える事も出来ず、事故や病気などルール外の死滅では意味がない。消えるとしたら自死でしかないのだ。

要は環境によって死滅状態にあるセルがうつ病の人で、鬱状態とは死滅に向かう途中というわけだ。
で、この死滅に向かうセルを生かすためにどうするべきか?
死滅に向かうセルを救うには「環境を変える」か「ルールを変える」以外にないのだ。

自分を変えようというとき、自分の中だけで変わろうとしても難しい。
引っ越したり、仕事を変えたり、友人を変えたり...
お金や周りの評価を気にしていたのをやめ、別の価値観で生きるようにしてみたり。

環境やルールを変えれば、いやでも自分自身も変わる。

そんな風に思ったりします。

読書

映画「君の名は。」が大ヒットした去年。

何となく観る事は無いなと思ったけど、プロデューサーの方が小説などを書いているそうなので、そっちを少し読んでみることにした。

読んだのは
「世界から猫が消えたなら」と
「億男」


文章は読みやすく、テーマもキャッチ―で内容もまとまっていると思う。

どちらの作品も2時間くらいで読めるし、読書が苦手な方でも読める感じ。


ただ、今の流行なのか、どうもキャラクターがアニメのキャラっぽいというか、話全体もライトノベルっぽい感じが気がする(ラノベは読んだことないけど)。

詩的な表現や個性的な言い回し、意外な仕掛けみたいなものはなく、キャラクターの肉付けみたいなものも随分あっさりしている。

読み応えがある作品とは期待しない方が良いでしょうね。

巻末の解説文で
”宮沢賢治の銀河鉄道の夜に並ぶ現代の古典!”って書いてあるけど、

・・・それはない。


なんていうか、この人たちの作品は僕には合わないだろうなという確信が持てたかな。


キネマ旬報の『日本映画2016ベスト10』で「君の名は。」は圏外だったみたい。
1位は同じアニメ映画の「この世界の片隅に」。

キネマ旬報サイト

まあ、新しい価値観が広がって、市場を盛り上げてくれるなら良いんだろうけどね。

パワハラ

電通社員の自殺などもあり、ブラック企業のパワハラの話題が取り上げられる。

パワハラの背景には、動物などでもみられる「マウント(マウンティング)」行為と同じ意味合いがあるように思える。

パワハラとは部下に「俺の方が上だ」というのを示すために、無理難題を押し付けたり、罵倒したり、飲み会などで飲酒を強要するなどの行為をさす。

ただ、思うのは、

これらは「コミュニティの中にいる」からこそ起こる出来事であり、いったん外に出てしまえば、回避は容易だったりする。

会社などでいえば「辞めてもいい」という腹さえくくれば、上司から嫌がらせを受けても「やめろやボケ!」の一言で済むのだ。

ところがほとんどの人は「会社は辞めたくない」「世間体がある」「収入が心配」など、弱みの素となる”欲”があり、自分が所属するコミュニティから離れられないでいる。
結果、パワハラとの板挟みになるのだ。

辞めると腹をくくれないなら、パワハラを受けることに腹をくくるしかないのである。


結局のところパワハラを受ける人間はパワハラをする人間と対になっていて、双方が共存しているようなもんだと思ってる。

たぶんパワハラを受けている人はノイローゼや鬱にはなっても、「辞めたらぁ!」といって上司をぶん殴ったりは逆立ちしても出来ないだろう。

そんな人間はそもそもパワハラの標的にはならないから。


まあ、そのうち慣れるんだろうし、パワハラをする側に回れば案外楽しいのかもしれないよね。



どっちにせよプロレス社会で新入りの練習性の分際で、先輩レスラーの「飲め!」の要求に、相手を睨みつけながら「飲めません」と断っていた俺には関係ない話だね。

イグノーベル賞

今年のイグノーベル賞に「股のぞき」の研究が選ばれた。

この研究では、股のぞきで観たときは通常の直立での視野よりも、ものが小さく見え、奥行きも平らになるなどを確認し、前かがみの状態でも同じような効果があることを突き止めたものだ。

ちなみに逆さメガネをかけてみた場合は、このような錯視は起こらない模様。

人間が”観ている”ものは、光学的な情報だけではなく、脳内で様々な補正を受けて意識の上に登ってくるものだ。
今回の研究では、逆さになるという簡単な方法で、人の認知に環境(この場合は重力?)が幾らかの影響を与えている事をシンプルに証明しているように思う。

そもそも人間は何を”観ている”のか。

絵を描くとき意識するのは、「物自体」と、「概念」。このバランスだ。
「物自体」は、いうなれば光学的情報で受け取っているもの等。
一方「概念」は経験等により光学的な情報を”もの”と認識するためのルールみたいなものだ。

逆さに見た場合、この概念から外れるため、”もの”を認識しづらくなる。
人の顔を逆さに描くのが困難なのは概念が邪魔をするからだろう。

一方「物自体を見る」のはどう言う事だろう。
目が受け取る情報は『明るさ』と『色』だ。
この二つから『輪郭(線)』を導き出し、その『線』と『線』の関係性を導き出す。

ざっと、そんな感じに考えてる。

その工程で、色々なものから情報を集め、脳内で補正をかけ、今実際に見ている映像を我々の脳は作り上げているのだろう。

その色々なものの中に重力がかかわっているという事を、今回の研究は示唆しているのかもしれない。


イグノーベル賞といえども、なかなか侮れない研究ですね。

デザインについて

NHK「特報首都圏”オリジナルってなんだ~揺れる表現の現場~”」を見て思う事。

そもそもデザインするという行為の中に「既製品から選ぶ事」も含まれている。
例えばお店の内装デザインとか、作品ではデュシャンの「泉」とか。

個人的な考えだけど、デザインには『階層』があって、

1.社会・文化 (考え方など)

2.空間・街 (大きな形~考え方)

3.もの・かたち・機能 (文化的な最小単位)

なんかに分かれていて、それぞれはデザインしているモノが違う。
例えば「バリアフリー」みたいなものも考え方のデザインだし(1)、そこから街づくりや建物などで階段だけじゃなくスロープを付けたりと新しくデザインが決まっていく。

これらは政治家や空間デザイナー、建築デザイナーとかの仕事かな。
ロックアーティストみたいなのも「ロック」という考え方のデザイナーなのかな。

さて、巷で問題になっているのは一番下の階層の(3)のデザインだろう。
これは明確に著作権によってそれぞれの作品が独立したものとして扱われる。
つまり法律論だ。

作品が「法律によって」独立していると言っても、”無”から”有”を生み出せるはずもなく、何かしらに依拠はしている。

この”依拠”もいくつかの階層に分かれていて、

A. 哲学でいう”イデア”的なもの・物理学や量子論などで示されているもの

B. 自然にあるもの(動物、植物とか)

C. 社会的、文化的に共有されているもの(機能的なもの、スタンダード化したもの)

D. オリジナル(個々にあるもの)

みたいな感じで、これらを掛け合わせたものを、さらに”環境”で掛けたものが作品としてのデザインになると思う。

デュシャンの「泉」の場合

便器(社会的に共有されたもの(C))×美術展での展示(社会・文化(1))=作品の価値

みたいな感じ。


絵本のキャラクター「ミッフィー」の場合は

ウサギ(B)×擬人化(C)×単純化(C)

って感じかな。

口のバッテンは説明しにくいからアレは発明だねw (・ × ・)<+(D)になるね
こういう発明は漫画などでは多くて、怒った時のマーク(B×C(血管×単純化))や汗マーク(B×C(水滴×単純化))、ひらめき💡マーク(C×C(電球×発明された事実))などがあり、これらは最早スタンダードと化して、文化的に共有されている(C)にまとめられる。


オリンピックのロゴに関しては、ロゴマークのデザインと言うより文化的なデザインだと個人的には思っているが、デザイナーさんの仕事の晴れ舞台なのか”オリジナルデザイン”と言う売り出し方をしている気がする。

ぶっちゃけ使いまわしであろうと「日の丸」で良い気がする。
デザイナーさんの仕事は無くなるけどw

デザインと言うのは複数の要素の重ね合わせで出来ているのに、「個人の力で”無”から生み出した」と誤解を受けるようなプロモーションは面倒事になるだけですね。


デザインについて色々問題が起こった後、出てくるデザイナーさんの言い分は「色々考えてやっても似てくることがある」「パクリではない」とかで、あんまり説明が上手な方々ではないんだなぁって思った。説明できないならメディアに出なきゃいいのに(´・ω・`)


さて、個人的なデザインの話をさせてもらうと、世の中にある「バランス」と「リズム」の正体を知りたいと思っている。
正解を見た事も経験した事も無いのに、なぜか良し悪しは解る謎。

黄金比とかゆらぎ等、色々あるけど、おそらく自然の法則で説明できるのだろう。

自然界には第5の力があるかもなんて話も出てきている
(重力、電磁力、弱い力、強い力+超短い力!!)

こういう自然の法則がこの世界全体のデザインを決めていると個人的には思ってる。

進化し過ぎた脳

池谷裕二さんの著書「進化しすぎた脳」を読む。
この人の本は読みやすいし、分かりやすくてサクサク読めます。

内容で興味深かったのは、簡単な二択問題を出した時、正解か不正解かは”問題を出す2秒前”には脳波で解るらしい。

問題を出す前に既に決まっているのだ。 

これには”脳のゆらぎ”が影響しているようで、脳にはこうした不確実性を生むシステムが組み込まれているという事らしい。

面白いね。 

絵を描く人間として、記憶の解説も面白いものがあった。

記憶はかなりあいまいなもので、物の形なども「概念」で記憶している。

で、絵のデッサンではこの「概念」が邪魔になるときがある。
人や物を逆さまに描けないのは、上下という「概念」がある所為だ。

これをクリアするためには概念を極端に広げるか、概念から切り離して物を捉えるかの二つだと思う。

その辺を意識しながら、今日もデッサン。

漫画術と緊緩論

『ジョジョの奇妙な冒険』の作者、荒木飛呂彦さんが書いた本、「荒木飛呂彦の漫画術」を読んでみる。

書かれている内容は、まさに”漫画を描くために必要なノウハウ”であり、所謂ハウツー本である。

漫画家という職業上で必要なノウハウの解説もあるが、ストーリーの作り方やキャラクターの作り方なんかは、他のジャンルにも通じる部分もあると思うので、かなり参考になると思う。

絵に関しても、あの「黄金比」をはじめ、美しさやリアリティ、そして個性など、漫画において必要な要素を分かりやすく説明されていて、なかなか面白かった。


んで、同じタイミングで読んでいたのが、枝雀さんの「らくごDE枝雀」。
以前から興味のある「”緊張と緩和”理論」と「サゲの分類」について対話形式で書かれている。


荒木さんの本は、漫画についての”構成要素”を分解して、その中で”面白い漫画”について解説しているのに対し、枝雀さんのは”笑い”という現象そのものについて解説しているという感じだ。

ストーリーの作り方について見てみると、

荒木さんの方は

1.テーマがあり
2.1の中に世界観があり
3.2の中にストーリーがあり
4.3をキャラクターが演じる

上記を絵や言葉で観測者(読者)に伝える

ストーリーには起承転結とし、現実ではないがその世界でのリアリティが必要。

ざっくりというとこんな感じ。


一方、枝雀さんの方は

笑いの分類として
1.生理的な笑い(緊張と緩和)
2.知的な笑い(ダジャレなど知性がないと理解できないもの)
3.他人の困り(ドジっこなど)
4.社会的タブー(下ネタ、ブラックジョーク)

基本はすべて1に集約されている。

ストーリーの構成に関しては

1.合わせ
2.離れ
3.合わせ離れ
4.離れ合わせ

以上の4つで、基本は”合わせ”と”離れ”
どちらが度を越えても少なくてもダメ。


といった感じ。


荒木さんの方は教科書で、枝雀さんのは研究論文といった感じだね。

どちらも「後世の人の役に立てば」という思いで書かれたもの。

おすすめ

量子生物学

面白い学問だ。

量子論はかなり興味深く、個人的に、量子が見せる振る舞い(曖昧さやゆらぎ)は、社会性を持った生物の社会形成にも影響を与えている(似ている?)のではと思っている。

例えるならコンピューターゲーム上での”乱数”の存在が、ゲームを豊かにするのと同じように。

社会においても、一定の”乱数”が存在する気がする。
ただ、その”乱数”が単に”ランダム”では、社会はいつ破綻するかわからないリスクを抱えることになる。だから”乱数”にもルールはあるはずなのだ。

で、社会の方向は一方向に進むのではなく、ある程度の振り幅を持って、逆方向に進んでいくような”ゆらぎ”も持っているんじゃないかなって思う。

この、「量子生物学」が発展していけば、社会の量子論的考察がなされる日も近いのかな。

楽しみ。

なんか面白いワークショップがあったらしい(科学哲学会WS