統計「思い過ごしの世界」


客観的なデータを見ることで、自分達が見ている(生きている)世界がいかに不正確で、人はそれぞれ自身が持っている「思い過ごしの世界」に生きてるってことがよく分かる。
以前、記憶と感情について書いたけど、「思い過ごしの世界」ってのは、脳のシステムとしては当然な事なのかもしれないね。

それを覗き見れるのが統計の面白さ。

人工知能

人工知能は「身体がない」という決定的要素を変えなければ人間には近づかない。
身体を持ち、環境のアフォーダンスや制限を受けてこそ生まれるものもあるからだ。

あと、自我と全体のバランスも大事。
これに関しては人間もどういうシステムなのかわからんけど。

ていうか、そもそも人間とは違う方向に進めていく感じなのかな?

もし、人工知能が自立して独自に生態系を築いた場合、なんか原始的な世界になりそうな気がする。アメーバとかカビみたいな。

人間はいびつだから面白いんだけどね。生物として洗練されると、いずれ収束していきそう。乱数とかは実装するのかな?



心を生み出すシステム

基本的に人間に自由意志などは無く、一般的にいうところの”心”というものも存在していないというスタンスでいるんだけど、皆が”心”と言っている”何かしら”はあるので、それが何なのかをちょっと考えてみたい。

そもそも”心”って何を指すのだろう?

ちんたら書くのもアレなので、独断と偏見で「感情」と「物語性」だと決める。
で、この「感情」や「物語性」にはきちんとシステムとしての役割がある。

まず「感情」だけど、これは物事の「正否」を決めるためのフィルターみたいなものだと考える。
何かを選択するときや、対象を好意的に記録するか否定的に記録するかなど。
また、その決定が確実ではなく、ある種のランダム性を持っているという点が重要だ。

人間というのは「こうなれば必ずこうなる」といった機械的な決定をしないものだ。

「ある条件を満たせば必ずこうなる」という状態に、不確実な”ゆらぎ”を付け加えて、全体としての選択が一方向にまとまらない(収束しない)ように働く、それが感情の役割だと思う。

例えば「みんなが○と言っているし自分もそうしよう」や、逆に「みんな○だから自分は×にしよう」というのは、感情のフィルターを通した結果を受けて判断を決定しているといえる。※保留もある
判断以外にも、認知のプロセスには全て感情のフィルターがかかっており、情報が意識に上る前から感情による取捨選択が行われているそうだ。

もともと脳ではニューロンのスパイクに対してシナプスが神経伝達物質を放出する際、放出が行われるかどうかは確率で決まる。
それと同じ不確定性が脳細胞から人間のスケールに変えても保存されており、その不確定性を作るためのシステムが感情なのではないかと思ってる。


さて、もう一つの「物語性」だけど、これは記憶のためのシステムではないかなと考えてる。
よく記憶術なんかで「ストーリー立てて覚えれば覚えやすい」とかあるけど、そもそも人間の記憶のほとんどは物語で覚えているのではないだろうか?(リズムに乗せて覚えたり)
※正確にいうと物語性というより”関連性”かな?

絵を描いているとよくわかるけど、人の顔や物の形など、人間は驚くほど記憶していない。漢字なんかは特に分かりやすい。読めるけど書けないってやつだ。
この場合、漢字の細部の記憶はあいまいで、前後の文面や全体の印象で「これは確か○○だな」と気づく。すごいのは細部が少し違っていても意外と気づくところだ。
※体が覚えているってのもあるけど、とりあえずそれは置いておく

画像データで喩えるとビットマップ形式で覚えているのではなく、ベクター形式で覚えている感じかな。細部の表現は難しいけど、大体の形を少ないデータで保存できる。

「感情」と「物語性」と「記憶」は相互に関連しており、それぞれを互いに強化しあっているように感じる。※時間の概念も生まれるね

また、実際の世界には、認知できないレベル(あるいはしきれない)のノイズのような情報があるが、感情や物語性には、このノイズを程よく除去する作用もあるのではないかな。自然さを出すためにはノイズは必要なので、脳内で改めて付け加えるのだろう。

結論を言うと『ある複合体の中で、個体としての振る舞いを決定するためのシステムを”心”と呼んでいる』って感じ。

誰かこの辺を研究している人いないのかなぁ。。

柔軟性の力

スポーツをしていると柔軟性の必要性をうるさいほど言われる。

ほとんどの場合が「怪我の予防」だ。

ただ、柔軟性の向上がパフォーマンスを上げることについては、さほど語られている印象がない。

トレーナーなどもパフォーマンスが上がると口にはするが、具体的にどう変わるかを説明できる人は少ないように思う。

実際、トレーナーや柔整などの身体の専門家でも「過度の柔軟性は伸張反射を鈍くしてしまう」と柔軟性がつくことによる弊害としてパワーや瞬発力の低下があると信じている人がいる。

実際、僕も人よりは少し身体が柔らかいけど、ある柔整の先生から「見た目よりも力は弱いはず」と言われた事があります。

まあ、実際スパーとかで対戦した人からは力が弱いと言われた事はないですが。

なぜ、トレーナーは柔軟性の重要性をあまり理解できていないのか?
それは、、、自分が柔らかくないからだと思う。

さらに言うと、柔軟性の高いアスリートは、一部の競技(バレエとか)を除きかなり少ない。
自分も硬いし、周りにも柔らかい人はいないとなると、推測でしかものが言えない。
なので、いまいち柔軟性の重要性がわからないのだ。

トレーナーの指導するストレッチに関しても、筋肉の緊張をほどくケア的なものばかりで本格的に柔軟性を上げるための指導はおそらくしたこともないだろうし、やり方もわからないんじゃないかな?

個人的には身体のケアとしてのストレッチと柔軟性を上げるストレッチは全く別だと思ってる。
実際に僕の柔軟を見てる人は、とても「身体のケア」をしているようには見えなかっただろう。

さて、ではスポーツ界で身体が柔らかい人はいないのだろうか?と探してみると、有名なところで一人います。

それは、野球のイチロー選手。



ストレッチに多くの時間を割くことも知られていますね。
(日ハムの大谷選手も柔らかいらしい)

とはいえ、イチローだけを引き合いに出しても説得力がない(気がする)ので、もう一つ例を挙げてみる。

それは、

ディープインパクト!

競走馬です。

ディープは身体も小さくネコ科の動物の様で、武豊騎手も「チーターみたい」と言っていたそうな。
当時、競馬界では身体が小さい馬は評価が低かったそうですが、ディープの出現によりその認識は改められたようです。

そして、そのディープのお父さんであり、日本の競馬界を変えた種牡馬であるサンデーサイレンスも身体が柔らかかったという事実があります。

サンデーは華奢で足はひょろ長くX脚気味で、筋肉は柔らかく、その身体的特徴は当時の相馬眼の基準からは「走らない馬」とされたそうです。

この時も筋肉が柔らかいことは「パワーや瞬発力がない」という認識だったようです。

ところがどっこい、サンデーはG1を勝ちまくる。

その後、種牡馬として13年連続リーディングサイアーになり、その産駒もサンデーと同じく柔らかい筋肉を武器に、重賞レースで勝ちまくり、「柔らかい筋肉はダメ」という常識を完全に覆したそうだ。


以上を見ても、柔軟性というものが持っている可能性はかなり大きいと言える。
一方で、柔軟性をつけるリスクがないとも言えない。

大事なのはその身体をコントロールすること。

選手は自分に合った身体をよく理解したうえでトレーニングすることですね。



スケールの違い

スケールの違いによって、対象となる世界が変わる。

金網があれば人間は先には進めないが、小さな蟻には難なく通れる。
おそらく金網の存在にすら気付いていない。

一方、小さな蟻には庭の水たまりは渡れないが、人間は気にも留めずに渡れる。

よくロープは人間サイズだと1次元だけど蟻には2次元であると喩えられる。

サイズによって世界は変化するのだ。

これは時間でも同じで、地上で1週間しか生きられない蝉に来週の天気予報は必要ない。

つまり、対象となる世界が変わるので、必要な情報も変わってくるのだ。

片方で必要な情報も、もう片方では不必要になり、その逆もある。

この「対象とする世界の違い」が同じ種族間でも起こるなら?

例えば「頭の回転が速い人」と「頭の回転が遅い人」は対象とする世界(情報)が違うのではないか?

なので、一概にどちらが優れているということはないのだと思う。


老後を考えて生きる人もいれば、何万年後かの人類の科学の進歩に思いを馳せる人もいる。そして、余命一年と言われた人はその一年を大事に生きるだろう。

大事なのは自分がどのスケールで生きているかを理解することだね。

読書は必要か?

「若者の読書離れ」みたいなものが結構前から叫ばれている。

本や新聞といった活字の媒体の発行部数の減少など、その兆しは顕著らしいが、一方で「そもそも読書は必要か?」という議論もネット上で散見する。

「どっちでもいい」という意見も多いが、肯定派否定派ともに「読書=情報を得るためのもの」という考え方の様だ。

肯定派の場合は「知見を広げる」と言い、否定派は「情報ならネットで良い」となる。

ただ、この二つの考え方は、読書の根本的な意味を理解していないと思う。

知見を広げるなら否定派の言う通りネットなどで調べればいいし(情報が1冊という単位に区切られているのは意味があるだろうが)、「情報はネットで良い」という人は「計算は電卓で良い」と算数も学ばなくていいと思っているのだろうか?

読書をする意味は個人的には「情報の処理を学ぶ」ものだと思っている。

書かれている内容は知見を広げるの為に十分な意味があるが、それ以上に、そもそも何かの”情報”を文章で”伝える”仕組みを無意識に覚えていくのが読書の持つ効果なのだと思う。

それはネットでも変わらない。

ただ、ネットの文章と本の文章は、内容やページ数、デザインなどでさまざまなものがあり、それぞれ独自の論理的な構成を持っている。

その中でネットよりも本が優れている要素として考えられるのは、その書かれている文章の完成度ではないだろうか?

ネットの場合はまともな論文などを除けば、記者が書いたほんの数ページの記事と関連リンクを渡り歩く感じで情報を得るが、本の場合は本題と関連する情報などを数百ページにわたり書いてある場合が多い。

そして、本の場合は読者が”お金を払って読む”ものであり、著者サイドもそれなりの完成度を求められる。一方ネットの記事ではそれほど高いクオリティは求められていないし、下手な記事を書いたところで、必ずしも損をする人がいるわけではない。

文章の長さ(一つのテーマにおけるスケール)も大きな違いだが、この”文章の長さ”は組み立てる論理がかなり変化する要因の一つと考えられる。

わかりやすいところでいうと、昔は手紙だったのが今はメールになり、それが今はLINEやTwitterになっている。

手紙の場合は相手に情報を送るコスト(時間や手間)がかなりかかる為、非常に注意を払って書くと思うが、コストが下がるにつれて内容が適切かどうか等のチェックがおろそかになり、Twitterなどでは不適切なツイートをする人が後を絶たず、『バカ発見器』『バカッター』などとも言われている。

そして、文章の長さは、相手に送る情報の量や正確性などに大きな影響が出てしまう。

今まで500文字で伝えていた内容を100文字で伝えるとなると、いろんな部分を削除しなければならない。その際、豊かな表現を避け在り来たりな表現を使ったり、詳細な情報や正確な表現なども削ったりしなければならなくなる。

「そういうものもある」という具合で、いくつかの表現の一つと考えられればいいのだが、「それしか知らない」場合は非常に狭い視野、考え方の人間になるのではないだろうか?

つまり、普通の人が500文字で考えられるところを、100文字でしか考えられないとすると、これは明確な退化でしかないと思う。

結論を言うと、ネット等は非常に有用なものなので避ける必要はないが、そもそも人間の性能を落とさないためにも、読書はすべきである。

これは身体にも言えることで、「車があるから走れなくなってもいい」とはならない。
スポーツ等は人生で特に必要なものではないが、身体の機能を維持、向上させるには運動は欠かせないし、その手段としてスポーツは最適なのだ。

同じように、人間社会では文字を使った情報交換が必須である以上、文字を使う機能(脳)の維持、向上が必要で、そのためには読書が非常に有効である。

結論
皆さん本を読みましょう。

以上。