人工知能と感情

人工知能と人間を比較するとき、人工知能側には身体を持った経験の記憶がないのは、かなりアンフェアだと思う。

それとは別に、人工知能の課題として「感情」の存在がある

緊張と緩和理論では笑いについてしか語られていないが、基本的に人の感情は「ある状態とある状態の間を移行する(ゆらぎ)によって想起される」と考えているので、この理論がより深められれば、感情が生まれる仕組みや正体がわかるのではないかと思う。

で、このゆらぎの”ある状態”というのは、緊張や緩和と言った”温度”のようなもので、それがもう一方に移行するために”時間や距離”が生まれてくる。

もしこの”状態のゆらぎ”が感情の想起を決定づけられるのであれば、このゆらぎのパターンを解析し、再現できれば、コンピューターでも感情を理解した事にはならないだろうか?

勿論「笑いとはこういう状態」と言う事を学習させておいた上でだ。

つまり「こういうパターンの刺激に対して、笑いという状態になる」と言う事を関連付けて記憶させると言う事。

さらに、その感情に共感するようにプログラムを組めば、より高度な人工知能が出来る気がする。

パターンはかなり複雑になるだろうし、認識するスケールも様々だ。
※枝雀さんも緊張と緩和はフラクタルのような構造ととらえていたみたい

難しいだろうが、感情を理解させるためには、感情を想起させる仕組みを覚えさせるもの一つの方法だと思うし、今後の人工知能の研究に期待してみたい。


にしても、つくづく枝雀さんには今の時代を生きてほしかったなぁ。。。

fMRIで客の脳内を観察しながら落語を聞かせて、笑いに向かうまでのパターンとかを分析してほしかった。。

誰かやらないかなぁ。

鬱病

うつ病を語るとき、本人の気の持ちようで治るものではない事と、(自殺によって)死に至る可能性があると言う事がよく言われる。

最近ふと思ったのが、
「鬱は”死に至る病”ではなく”死に至る途中”なのではないか」と言う事。

ライフゲームで例えて言うと、
周りに2~3の生存しているセルがあれば真ん中のセルも生存できる。
1個以下だと死滅。4つ以上にあっても死滅だ。

鬱は周りのセルが4つ以上もしくは1個以下の状態で、真ん中のセルが死滅する環境になった状態とみなす事が出来る。
と言っても、人間はゲームのようにパッと消える事も出来ず、事故や病気などルール外の死滅では意味がない。消えるとしたら自死でしかないのだ。

要は環境によって死滅状態にあるセルがうつ病の人で、鬱状態とは死滅に向かう途中というわけだ。
で、この死滅に向かうセルを生かすためにどうするべきか?
死滅に向かうセルを救うには「環境を変える」か「ルールを変える」以外にないのだ。

自分を変えようというとき、自分の中だけで変わろうとしても難しい。
引っ越したり、仕事を変えたり、友人を変えたり...
お金や周りの評価を気にしていたのをやめ、別の価値観で生きるようにしてみたり。

環境やルールを変えれば、いやでも自分自身も変わる。

そんな風に思ったりします。

読書

映画「君の名は。」が大ヒットした去年。

何となく観る事は無いなと思ったけど、プロデューサーの方が小説などを書いているそうなので、そっちを少し読んでみることにした。

読んだのは
「世界から猫が消えたなら」と
「億男」


文章は読みやすく、テーマもキャッチ―で内容もまとまっていると思う。

どちらの作品も2時間くらいで読めるし、読書が苦手な方でも読める感じ。


ただ、今の流行なのか、どうもキャラクターがアニメのキャラっぽいというか、話全体もライトノベルっぽい感じが気がする(ラノベは読んだことないけど)。

詩的な表現や個性的な言い回し、意外な仕掛けみたいなものはなく、キャラクターの肉付けみたいなものも随分あっさりしている。

読み応えがある作品とは期待しない方が良いでしょうね。

巻末の解説文で
”宮沢賢治の銀河鉄道の夜に並ぶ現代の古典!”って書いてあるけど、

・・・それはない。


なんていうか、この人たちの作品は僕には合わないだろうなという確信が持てたかな。


キネマ旬報の『日本映画2016ベスト10』で「君の名は。」は圏外だったみたい。
1位は同じアニメ映画の「この世界の片隅に」。

キネマ旬報サイト

まあ、新しい価値観が広がって、市場を盛り上げてくれるなら良いんだろうけどね。

初詣~ラスコー展


今年の初もうでは靖国神社。
明治神宮に比べると、は
るかに人も少なく御賽銭もちゃんと賽銭箱に投げ入れられる。

お雑煮と甘酒を頂いて、科博へ向かう。


科博では現在「ラスコー展」が開かれている。

ラスコーとはフランスにあるクロマニョン人が描いた洞窟壁画の事で、今から2万年前程に描かれたものだ。ちなみに世界遺産になっている。

クロマニョン人は我々と同じホモサピエンスで、のちに日本列島にも渡来しているそうだ。

観に行った目的としては、人が絵を描くという行為がどういったものであるのか?壁画はなぜあのように描かれ、なぜあのようにしか描かれなかったのか?等を探りたかったから。




壁画は明らかに動きなども表現されていて、単なる”記号”ではないように見える。

当時の人は上手く描こうとしていたのか?練習はしたんだろうか?
写実的に、あるいはデザイン性に富んだものなど”表現すること”をどうとらえていたんだろうか?

考えるとキリがないが、真っ暗な洞窟内で、ろうそくの明かりを頼りに壁画を描き続けたのだから、かなりの労力だっただろう。

何か意味があると思ってしまうが、確かめることはできない。


ラスコー展を観た後は、科博の常設展へ。




いやーやっぱり凄い迫力ですな!


何万年前のものから色々学びつつ、新年改めて頑張っていきましょう!










謹賀新年2017


明けましておめでとうございます。

去年は(も)色んな事があった一年でした。

今年は何が起こるのでしょうか。